音楽博物館


「ユーディー・メニューインの軌跡」展

 
展示風景 民音では、一昨年の「山田耕筰資料展」、昨年の「齋藤秀雄生誕100年記念展」に続き、7月13日より、「ユーディー・メニューインの軌跡」展を開催いたす運びとなりました。
これは、民音創立40周年記念の意義と、メニューインが手塩にかけて育て上げた、スイスの国際メニューイン音楽アカデミーが創立25周年を迎えることを記念して開催されることになったものです。また、この展示は、8月22日より、関西国際文化センターでも、民音所蔵の楽器展とあわせて開催することになりました。

 メニューインは、7歳でデビュー、12歳でワルター/ベルリン・フィルと共演するなど、「神童」の名をほしいままにしてきた、20世紀最大のヴァイオリニストであるばかりでなく、教育活動にも熱心に取り組み、イギリスとスイスに音楽学絞を設立したことは、よく知られております。
また、単に音楽家であるだけでなく、「発言する音楽家」として、社会のさまざまな問題に取り組み、世界平和をめざすヒューマニストとして、その行動は世界中から注目されてきました。

 1992年には、民音創立者・池田大作氏とも会見し、文化・教育を通した人類的な課題について有意義な会談がなされたことはつとに有名です。この展示を通し、人間メニューインの一端を感じとっていただければ幸いでございます。最後になりましたが、今回の展示にあたって、ご協力いただきました方々に衷心より感謝申し上げます。

2003(平成15)年7月
  主催:財団法人民主音楽協会
後援:スイス総領事館(関西)
協力:国際メニューイン音楽アカデミー
協賛:日本ロレックス株式会社

オープニングにはスイス国際メニューイン音楽アカデミー音楽監督のアルベルト・リシ氏をはじめ、アルゼンチン大使のアルベルト・エドゥアルド・ハム閣下、スイス大使のジャック・ルヴェルダン閣下にも来場いただき、小林代表理事と共にテープカットを行っていただきました。
(左ら) アルゼンチン大使、アルベルト・リシ氏、
スイス大使、小林代表理事
オープニング見学の様子
スイス国際メニューイン音楽アカデミーの室内楽団「アルベルト・リシ弦楽合奏団」の公演を15年10月下旬〜11月上旬に行います。

1916年 0歳 ニューヨークで、モーシェ・メニューイン、マルタ・シェルの間に、ユダヤ系ロシア人の子として生まれる。(4月22日)
1920年 4歳 この年、妹ヘフシバーが生まれる。(5月20日)
1921年 5歳 5月から、シグムント・アンカーのもとで、ヴァイオリンを習い始める。この年、妹ヤルタが生まれる。(10月7日)
1923年 7歳 5月、サンフランシスコ交響楽団のリーダー、ルイス・パーシンガーに師事し、急激な成長を遂げる。
1924年 7歳 サンフランシスコでコンサートデビュー。(3月12日)
1925年 8歳 サンフランシスコで師パーシンガーとともに本格的なリサイタルを開く。(3月30日)
この時使ったグランチーノ作7/8サイズのヴァイオリンを、メニューインは生涯手放さなかった。
1926年 9歳 マンハッタン・オペラ劇場にて、ニューヨークで初のリサイタル。(1月17日)
初めてオーケストラと共演。パーシンガー指揮サンフランシスコ交響楽団と、ラロのスペイン交響曲を演奏する。(3月12日)
この年、高名な弁護士・慈善事業家で一家と親しいシドニー・エーマンの支援を受けて、家族全員で渡欧。パリに居を構える。
夏にジョルジュ・エネスコに師事し、ともにルーマニアで過ごす。
1927年 10歳 ポール・バレー指揮ラムルー交響楽団と共演で、パリ・デビュー。
曲目は、ラロのスペイン交響曲と、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。
11月27日、カーネギーホールでデビュー。フリッツ・ブッシュ指揮ニューヨーク交響楽団と、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏。
1928年 11歳 ヘンリー・ゴールドマンから初のストラディバリウス「プリンス・ケーフェンフェラー」が贈られる。
初めてレコーディングを行う。エルネスト・ブロッホがメニューインのために「礼拝」を作曲。これ以降、多くの曲が、彼のために作曲された。
この年10月から、翌29年3月にかけて、パーシンガーとともに、初の大陸横断ツアー。その後、毎年、全米ツアーを行う。
エネスコの勧めにより、バーゼルでアドルフ・ブッシュに師事。
1929年 12歳 4月12日、ベルリンでデビュー。ブルーノ・ワルター指揮ベルリン・フィルと共演して、バッハ(ホ長調),ベートーヴェン、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏し、大喝采を浴びた。アインシュタインは、「きょう、君は証明してくれた。天上に神が存在することを」
11月10日、ロイヤル・アルバートホールでロンドン初のリサイタル。
1930年 13歳 パリ近郊のヴィル・ダヴレーに家を建て、一家で落ち着く。
ブロッホ、エルガー、コルトー、ナディア・ブーランジェなど、有名な音楽家が絶え間なく訪れる。
1932年 15歳 ロンドンのアビー・ロード・スタジオで、作曲者エルガー自身の指揮により、エルガーのヴァイオリン協奏曲をレコーディング。
1934年 18歳 10月13日、サル・プレイエルで初めて妹ヘフシバーとリサイタルを開く。
二人は、生涯を通じてたびたび共演し、1980年に最後の全米ツアーを行った。(ヘフシバー、1981年1月逝去)
最初の世界ツアー。72都市で110回のコンサートを行う。
1936年 20歳 休養期間。「心踊り、若さと喜びに溢れた日々」
1937年 21歳 セントルイスで、ロベルトシューマンのヴァイオリン協奏曲をアメリカ初演。
1938年 22歳 5月26日、ロンドンでノラ・ニコラスと結婚。
1939年 23歳 サンフランシスコで、第一子ザミラ誕生。
1940年 24歳 オーストラリアで第二子クロヴ誕生。
1941〜1945年   戦争中、メニューインはアメリカ、ヨーロッパ、太平洋の駐留キャンプの軍隊や野戦病院で働く人のために500回を超える演奏活動を行い、多くの人々に慰めと希望をもたらした。
1943年 27歳 イギリス訪問中に、シャルル・ド・ゴール将軍からロレーヌ十字勲章を贈られる。
11月、ニューヨークでベラ・バルトークのもとを訪問し、彼の前でヴァイオリンとピアノのためのソナタを演奏。
1944年 28歳 11月、バルトークに委属した「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」をカーネギー・ホールで初演。
妻ノラとは、絶望的に不仲となる。
1945年 29歳 終戦後、ベンジャミン・ブリテンとともにドイツを訪れ、避難民キャンプの難民のために演奏した。
また、この年に初めてモスクワを訪問。ドミートリ・ショスタコーヴィチ、ダヴィッド・オイストラフと逢う。
フランス政府から、レジョン・ドヌール勲章を受章。
1947年 30歳 ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮により、ドイツとスイスでコンサートとレコーディングを行う。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を、1947年にルツェルン祝祭管弦楽団と、1953年にフィルハーモニア管弦楽団とレコーディング。
10月19日、ロンドンでダイアナ・グールドと結婚。その後、52年間、互いを伴侶として愛を分かち合う。
1948年 32歳 エディンバラで、ダイアナが第一子ジェラードを出産。(7月23日)
1950年 34歳 南アフリカを訪問し、黒人のために無料でモーニング・コンサートを行う。
アパルトヘイトの不当さを率直に批判するようになる。
「メニューイン卿は、音楽の演奏だけでなく、教育者や人道主義者としての活動を通じて、多くの人生に甚大な影響を与えた」(ネルソン・マンデラ 1999年3月)
1951年 35歳 サンフランシスコで、第二子ジェレミー誕生。
この年、戦後、初めての外国人音楽家として、日本公演を行う。
「私はふるえたり涙が出たりした。・・・ああ、何という音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり 知った」(小林秀堆)
1952年 36歳 パンディット・ネルー首相の招きで、初めてインドを訪問。
ラビ・シャンカール等に逢う。これ以降、インド音楽を世界に広めることに尽力。
1956年 40歳 スイス・グシュタート音楽祭開催。
1956〜1962年   大規模なツアーを行い、東ドイツおよびソヴィエト連邦の各地で演奏する。
また、外国人音楽家として戦後、初めてハンガリーを訪れ、ゾルタン・コダーイと協力して、発声法を基礎とした新たな教育法を研究する。
1959年 43歳 イギリス・バース音楽祭の芸術監督を務める。(1968年まで)
バース祝祭オーケストラを結成し、バッハのブランデンブルク協奏曲をはじめ、数多くの録音を残す。
1963年 47歳 ユーディー・メニューイン・スクール設立。最初はロンドンにあったが、その後、すぐサリー州ストーク・ダバノンのエドワード朝様式の邸宅に移転。
1965年 49歳 大英勲章第二位を受章。
1969年 53歳 ユネスコ国際音楽協議会の会長に選ばれ、3期連続して務める。
この年から1972年まで、ウィンザー音楽祭の芸術監督を務める。
1970年 54歳 スイス名誉市民の称号を受ける。
1971年 55歳 有名な反体制作家、アレクサンドル・ソルジェニーツィン、エヴゲニー・エフトシェンコを擁護。
1972年 56歳 ジャズの巨匠、ステファン・グラッペリと共演。
1974年 58歳 スラヴァ・ロストロポーヴィチと妻ガリーナ・ビシニェフスカヤのソ連亡命に手を貸す。
1977年 61歳 ライブ・ミュージック・ナウ設立。
1978年 62歳 スイス・グシュタートにメニューイン音楽アカデミーが開校。
1979年 63歳 文化大革命直後に、初めて中国を訪問。
1980年 64歳 ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラの名誉会長に選ばれる。
1982年 66歳 ユーディー・メニューイン・スクールの生徒やカメラータ・リシとともに、二度目の訪中を果たす。
1983年 67歳 カステル・ガンドルフォで、ローマ法王のためにポーランドの室内オーケストラと共演。
これを前身として後に、ワルシャワ・シンフォニアが誕生し、首席客員指揮者となる。
1985年 69歳 イギリス市民権を取得。
1987年 71歳 メリット勲章を授与される。生誕70周年記念行事の一環として、スイスの国際メニューイン音楽アカデミーの演奏グループ、カメラータ・リシとともに来日、東京・大阪・神戸で公演。
1988年 72歳 新たに再建されたベルリンの国会議事堂で、ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラを指揮。
1989年 73歳 共産主義体制崩壊直後のクレムリンで、ヘンデル「メサイア」を指揮。
この作品をロシア語で初演する。
また、この年、60年ぶりにドレスデンを訪れ、再建されたドレスデンのオペラハウスで、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団を指揮。
1992年 76歳 4月5日、民音創立者・池田大作氏と会見。ブリュッセルに、勅令により国際ユーディー・メニューイン財団が設立される。
ウォルフ賞受賞に伴い、イスラエル国会で演説。国家間の平和と協力を訴える。
友人アンタル・ドラティの後任として、ハンガリー・フィルハーモニー管弦楽団の名誉会長兼首席指揮者となる。
このオーケストラは、1956年に共産主義体制から亡命したハンガリーの音楽家たちによって結成され、ドイツで大きな支持を受けた。
1993年 77歳 一代貴族に叙せられ、ストーク・バートンのメニューイン卿となる。
1994年 78歳 ブリュッセルでMUS−E発足。
この団体は、ヨーロッパ全土の貧困地域の小学校に音楽を普及させ、音楽、パントマイム、ダンスを通じて集中力を高め、創造力を刺激して新たな視野を開くことを目的としている。
また、この年、ストラスブールでワルシャワ・シンフォニアを指揮し、ベートーヴェンの全交響曲のライブレコーディングを行う。
1995年 79歳 グシュタート音楽祭のオープニングで、ギドン・クレーメルとバッハの二重協奏曲を演奏。
ヴァイオリニストとして、愛器ロード・ウィルトンを手に、聴衆の前で演奏するのは、これが最後となる。
国連創設50周年前夜、サンフランシスコのガラコンサートでロイヤル・フィルハーモニー・オーケストラを指揮。
メニューインは、1945年、国連憲章調印を祝うコンサートで、演奏を行っている。
南アフリカを再訪し、リトアニア室内合奏団、黒人合唱団とともに、ヘンデル「メサイア」を演奏する。
1996年 80歳 3月21日、80歳の誕生日を祝う。
チャールズ皇太子の招きにより、バッキンガム宮殿で開かれた晩餐会では、ユーディー・メニューイン・スクールの生徒がお祝いの演奏をした。
10月2日、ドイツ連邦共和国、欧州委員会、ユネスコの後援によって開かれたサラエボ平和コンサートで、サラエボ・フィルハーモニー・オーケストラとワルシャワ・シンフォニアを指揮。
1997年 81歳 3月17日〜23日:ワルシャワ・シンフォニアと南アフリカツアー。
10月12日〜18日:中国国立交響楽団、ワルシャワ・シンフォニアの団員と中国ツアー。
1998年 82歳 10月21日〜11月4日:ワルシャワ・シンフォニアとオーストラリア・極東ツアー。
12月22日:フィルハーモニア・オーケストラを指揮し、ロイヤル・アルバートホールでベートーヴェンの「交響曲第8番、第9番」を演奏。
1999年 82歳 3月12日、演奏旅行中のドイツで逝去。