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1916年 |
0歳 |
ニューヨークで、モーシェ・メニューイン、マルタ・シェルの間に、ユダヤ系ロシア人の子として生まれる。(4月22日) |
1920年 |
4歳 |
この年、妹ヘフシバーが生まれる。(5月20日) |
1921年 |
5歳 |
5月から、シグムント・アンカーのもとで、ヴァイオリンを習い始める。この年、妹ヤルタが生まれる。(10月7日) |
1923年 |
7歳 |
5月、サンフランシスコ交響楽団のリーダー、ルイス・パーシンガーに師事し、急激な成長を遂げる。 |
1924年 |
7歳 |
サンフランシスコでコンサートデビュー。(3月12日) |
1925年 |
8歳 |
サンフランシスコで師パーシンガーとともに本格的なリサイタルを開く。(3月30日)
この時使ったグランチーノ作7/8サイズのヴァイオリンを、メニューインは生涯手放さなかった。 |
1926年 |
9歳 |
マンハッタン・オペラ劇場にて、ニューヨークで初のリサイタル。(1月17日)
初めてオーケストラと共演。パーシンガー指揮サンフランシスコ交響楽団と、ラロのスペイン交響曲を演奏する。(3月12日)
この年、高名な弁護士・慈善事業家で一家と親しいシドニー・エーマンの支援を受けて、家族全員で渡欧。パリに居を構える。
夏にジョルジュ・エネスコに師事し、ともにルーマニアで過ごす。 |
1927年 |
10歳 |
ポール・バレー指揮ラムルー交響楽団と共演で、パリ・デビュー。
曲目は、ラロのスペイン交響曲と、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。
11月27日、カーネギーホールでデビュー。フリッツ・ブッシュ指揮ニューヨーク交響楽団と、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏。 |
1928年 |
11歳 |
ヘンリー・ゴールドマンから初のストラディバリウス「プリンス・ケーフェンフェラー」が贈られる。
初めてレコーディングを行う。エルネスト・ブロッホがメニューインのために「礼拝」を作曲。これ以降、多くの曲が、彼のために作曲された。
この年10月から、翌29年3月にかけて、パーシンガーとともに、初の大陸横断ツアー。その後、毎年、全米ツアーを行う。
エネスコの勧めにより、バーゼルでアドルフ・ブッシュに師事。 |
1929年 |
12歳 |
4月12日、ベルリンでデビュー。ブルーノ・ワルター指揮ベルリン・フィルと共演して、バッハ(ホ長調),ベートーヴェン、ブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏し、大喝采を浴びた。アインシュタインは、「きょう、君は証明してくれた。天上に神が存在することを」
11月10日、ロイヤル・アルバートホールでロンドン初のリサイタル。 |
1930年 |
13歳 |
パリ近郊のヴィル・ダヴレーに家を建て、一家で落ち着く。
ブロッホ、エルガー、コルトー、ナディア・ブーランジェなど、有名な音楽家が絶え間なく訪れる。 |
1932年 |
15歳 |
ロンドンのアビー・ロード・スタジオで、作曲者エルガー自身の指揮により、エルガーのヴァイオリン協奏曲をレコーディング。 |
1934年 |
18歳 |
10月13日、サル・プレイエルで初めて妹ヘフシバーとリサイタルを開く。
二人は、生涯を通じてたびたび共演し、1980年に最後の全米ツアーを行った。(ヘフシバー、1981年1月逝去)
最初の世界ツアー。72都市で110回のコンサートを行う。 |
1936年 |
20歳 |
休養期間。「心踊り、若さと喜びに溢れた日々」 |
1937年 |
21歳 |
セントルイスで、ロベルトシューマンのヴァイオリン協奏曲をアメリカ初演。 |
1938年 |
22歳 |
5月26日、ロンドンでノラ・ニコラスと結婚。 |
1939年 |
23歳 |
サンフランシスコで、第一子ザミラ誕生。 |
1940年 |
24歳 |
オーストラリアで第二子クロヴ誕生。 |
1941〜1945年 |
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戦争中、メニューインはアメリカ、ヨーロッパ、太平洋の駐留キャンプの軍隊や野戦病院で働く人のために500回を超える演奏活動を行い、多くの人々に慰めと希望をもたらした。 |
1943年 |
27歳 |
イギリス訪問中に、シャルル・ド・ゴール将軍からロレーヌ十字勲章を贈られる。
11月、ニューヨークでベラ・バルトークのもとを訪問し、彼の前でヴァイオリンとピアノのためのソナタを演奏。 |
1944年 |
28歳 |
11月、バルトークに委属した「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」をカーネギー・ホールで初演。
妻ノラとは、絶望的に不仲となる。 |
1945年 |
29歳 |
終戦後、ベンジャミン・ブリテンとともにドイツを訪れ、避難民キャンプの難民のために演奏した。
また、この年に初めてモスクワを訪問。ドミートリ・ショスタコーヴィチ、ダヴィッド・オイストラフと逢う。
フランス政府から、レジョン・ドヌール勲章を受章。 |
1947年 |
30歳 |
ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮により、ドイツとスイスでコンサートとレコーディングを行う。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を、1947年にルツェルン祝祭管弦楽団と、1953年にフィルハーモニア管弦楽団とレコーディング。
10月19日、ロンドンでダイアナ・グールドと結婚。その後、52年間、互いを伴侶として愛を分かち合う。 |
1948年 |
32歳 |
エディンバラで、ダイアナが第一子ジェラードを出産。(7月23日) |
1950年 |
34歳 |
南アフリカを訪問し、黒人のために無料でモーニング・コンサートを行う。
アパルトヘイトの不当さを率直に批判するようになる。
「メニューイン卿は、音楽の演奏だけでなく、教育者や人道主義者としての活動を通じて、多くの人生に甚大な影響を与えた」(ネルソン・マンデラ 1999年3月) |
1951年 |
35歳 |
サンフランシスコで、第二子ジェレミー誕生。
この年、戦後、初めての外国人音楽家として、日本公演を行う。
「私はふるえたり涙が出たりした。・・・ああ、何という音だ。私は、どんなに渇えていたかをはっきり 知った」(小林秀堆) |
1952年 |
36歳 |
パンディット・ネルー首相の招きで、初めてインドを訪問。
ラビ・シャンカール等に逢う。これ以降、インド音楽を世界に広めることに尽力。 |
1956年 |
40歳 |
スイス・グシュタート音楽祭開催。 |
1956〜1962年 |
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大規模なツアーを行い、東ドイツおよびソヴィエト連邦の各地で演奏する。
また、外国人音楽家として戦後、初めてハンガリーを訪れ、ゾルタン・コダーイと協力して、発声法を基礎とした新たな教育法を研究する。 |
1959年 |
43歳 |
イギリス・バース音楽祭の芸術監督を務める。(1968年まで)
バース祝祭オーケストラを結成し、バッハのブランデンブルク協奏曲をはじめ、数多くの録音を残す。 |
1963年 |
47歳 |
ユーディー・メニューイン・スクール設立。最初はロンドンにあったが、その後、すぐサリー州ストーク・ダバノンのエドワード朝様式の邸宅に移転。 |
1965年 |
49歳 |
大英勲章第二位を受章。 |
1969年 |
53歳 |
ユネスコ国際音楽協議会の会長に選ばれ、3期連続して務める。
この年から1972年まで、ウィンザー音楽祭の芸術監督を務める。 |
1970年 |
54歳 |
スイス名誉市民の称号を受ける。 |
1971年 |
55歳 |
有名な反体制作家、アレクサンドル・ソルジェニーツィン、エヴゲニー・エフトシェンコを擁護。 |
1972年 |
56歳 |
ジャズの巨匠、ステファン・グラッペリと共演。 |
1974年 |
58歳 |
スラヴァ・ロストロポーヴィチと妻ガリーナ・ビシニェフスカヤのソ連亡命に手を貸す。 |
1977年 |
61歳 |
ライブ・ミュージック・ナウ設立。 |
1978年 |
62歳 |
スイス・グシュタートにメニューイン音楽アカデミーが開校。 |
1979年 |
63歳 |
文化大革命直後に、初めて中国を訪問。 |
1980年 |
64歳 |
ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラの名誉会長に選ばれる。 |
1982年 |
66歳 |
ユーディー・メニューイン・スクールの生徒やカメラータ・リシとともに、二度目の訪中を果たす。 |
1983年 |
67歳 |
カステル・ガンドルフォで、ローマ法王のためにポーランドの室内オーケストラと共演。
これを前身として後に、ワルシャワ・シンフォニアが誕生し、首席客員指揮者となる。 |
1985年 |
69歳 |
イギリス市民権を取得。 |
1987年 |
71歳 |
メリット勲章を授与される。生誕70周年記念行事の一環として、スイスの国際メニューイン音楽アカデミーの演奏グループ、カメラータ・リシとともに来日、東京・大阪・神戸で公演。 |
1988年 |
72歳 |
新たに再建されたベルリンの国会議事堂で、ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラを指揮。 |
1989年 |
73歳 |
共産主義体制崩壊直後のクレムリンで、ヘンデル「メサイア」を指揮。
この作品をロシア語で初演する。
また、この年、60年ぶりにドレスデンを訪れ、再建されたドレスデンのオペラハウスで、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団を指揮。 |
1992年 |
76歳 |
4月5日、民音創立者・池田大作氏と会見。ブリュッセルに、勅令により国際ユーディー・メニューイン財団が設立される。
ウォルフ賞受賞に伴い、イスラエル国会で演説。国家間の平和と協力を訴える。
友人アンタル・ドラティの後任として、ハンガリー・フィルハーモニー管弦楽団の名誉会長兼首席指揮者となる。
このオーケストラは、1956年に共産主義体制から亡命したハンガリーの音楽家たちによって結成され、ドイツで大きな支持を受けた。 |
1993年 |
77歳 |
一代貴族に叙せられ、ストーク・バートンのメニューイン卿となる。 |
1994年 |
78歳 |
ブリュッセルでMUS−E発足。
この団体は、ヨーロッパ全土の貧困地域の小学校に音楽を普及させ、音楽、パントマイム、ダンスを通じて集中力を高め、創造力を刺激して新たな視野を開くことを目的としている。
また、この年、ストラスブールでワルシャワ・シンフォニアを指揮し、ベートーヴェンの全交響曲のライブレコーディングを行う。 |
1995年 |
79歳 |
グシュタート音楽祭のオープニングで、ギドン・クレーメルとバッハの二重協奏曲を演奏。
ヴァイオリニストとして、愛器ロード・ウィルトンを手に、聴衆の前で演奏するのは、これが最後となる。
国連創設50周年前夜、サンフランシスコのガラコンサートでロイヤル・フィルハーモニー・オーケストラを指揮。
メニューインは、1945年、国連憲章調印を祝うコンサートで、演奏を行っている。
南アフリカを再訪し、リトアニア室内合奏団、黒人合唱団とともに、ヘンデル「メサイア」を演奏する。 |
1996年 |
80歳 |
3月21日、80歳の誕生日を祝う。
チャールズ皇太子の招きにより、バッキンガム宮殿で開かれた晩餐会では、ユーディー・メニューイン・スクールの生徒がお祝いの演奏をした。
10月2日、ドイツ連邦共和国、欧州委員会、ユネスコの後援によって開かれたサラエボ平和コンサートで、サラエボ・フィルハーモニー・オーケストラとワルシャワ・シンフォニアを指揮。 |
1997年 |
81歳 |
3月17日〜23日:ワルシャワ・シンフォニアと南アフリカツアー。
10月12日〜18日:中国国立交響楽団、ワルシャワ・シンフォニアの団員と中国ツアー。 |
1998年 |
82歳 |
10月21日〜11月4日:ワルシャワ・シンフォニアとオーストラリア・極東ツアー。
12月22日:フィルハーモニア・オーケストラを指揮し、ロイヤル・アルバートホールでベートーヴェンの「交響曲第8番、第9番」を演奏。 |
1999年 |
82歳 |
3月12日、演奏旅行中のドイツで逝去。 |