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年号・年齢 |
事項 |
1902年(明治35年)0歳 |
東京築地明石町に英文学者齋藤秀三郎を父、とらを母として生まれる。(5月23日) |
1909年(明治42年)6歳 |
暁星小学校入学。 |
1915年(大正4年)12歳 |
暁星中学校入学。
中学時代、マンドリン・アンサンブルに興味をもち、民間のマンドリン・グループで頼まれて指揮をしていた時期あり。
指揮の第一歩。 |
1918年(大正7年)16歳 |
宮内省雅楽部・多元長氏についてチェロを学ぶ。 |
1920年(大正9年)17歳 |
上智大学入学。 |
1922年(大正11年)19歳 |
ドイツ留学のめどがつき、上智大学中退。 |
1923年(大正12年)20歳 |
ドイツ・ライプチヒ音楽学校入学。(5月1日)、クレンゲル教授に師事してチェロを学ぶ。 |
1927年(昭和2年)24歳 |
ライプチヒ音楽学校修了。(4月30日)新交響楽団(NHK交響楽団の前身)首席チェロ奏者となり(9月)、オーケストラ活動の第一歩を踏みだす。 |
1928年(昭和3年)26歳 |
新響第30回定期公演を指揮(5月27日)、プロの指揮者としてのデビューとなる。 |
1929年(昭和4年)27歳 |
前年に新響定期でソリストとしてボエールマンの「交響変奏曲」の初演を果たしたが、この年、第1回のチェロ独奏会を開き、独奏チェリストとしても注目される存在となる。 |
1930年(昭和5年)27歳 |
同楽団在籍のままドイツ・ベルリン高等音楽院入学。(5月5日)
、フォイアマン教授に師事。 |
1932年(昭和7年)29歳 |
ベルリン高等音楽院修了。(4月30日)
新交響楽団首席チェロ奏者に復帰(9月)その後、約10年近くの間、オーケストラ・プレイヤー、室内楽奏者、指揮者として活躍。 |
1936年(昭和11年)34歳 |
指揮者ローゼンシュトック来日、新響の指揮の責任者となってくれたが、彼から受けた指導や示唆(指揮のみならず音楽全般にわたって)は齋藤秀雄に大きな影響を与えた。 |
1941年(昭和16年)39歳 |
新交響楽団退団。(8月31日) |
1942年(昭和17年)39歳 |
松竹交響楽団指揮者に就任。(5月1日) |
1943年(昭和18年)40歳 |
同楽団指揮者を辞任。(4月30日)
日本放送管弦楽団指揮者となる。(5月1日) |
1945年(昭和20年)43歳 |
敗戦。(8月15日)
東京フィルハーモニー管弦楽団専任指揮者となる。(8月31日) |
1946年(昭和21年)44歳 |
同楽団退団。
(8月)前々から室内楽運動をくりひろげていた後輩たち(森正、巌本真理、河野俊達ら)と東京室内楽協会を結成、めざましい活動を開始。三越劇場を本拠とする三越室内楽鑑賞会の定期公演は、戦争直後の日本楽壇に活気を吹き込んだ。 |
1948年(昭和23年)46歳 |
井口基成、伊藤武雄、吉田秀和らと市ケ谷の家政学院に「子供のための音楽教室」を開設(9月)、弦楽器科主任となる。
相愛学園音楽科弦楽主任となる。 |
1950年(昭和25年)47歳 |
「子供のための音楽教室」に弦楽合奏のグループを組織し、オーケストラ教育の第一歩をふみだす。 |
1952年(昭和27年)49歳 |
京都市立音楽短大教授に就任。
「子供のための音楽教室」の卒業生の進路として、桐朋女子高等学校が、同校に音楽科を併設して受け入れてくれることになり、男女共学の桐朋女子高校音楽科が発足、音楽科主任となる。(桐朋学園「子供のための音楽教室」も開設) |
1953年(昭和28年)50歳 |
京都市立音楽短大教授辞任。 |
1955年(昭和30年)52歳 |
桐朋学園短期大学音楽科開設、同弦楽科主任教授。 |
1956年(昭和31年)54歳 |
永年にわたって推敲を重ねてきた「指揮法教程」が出版され、指揮法の基礎を理論的に説いた名著として注目される。芸術院賞受賞。 |
1958年(昭和33年)55歳 |
学長井口基成外遊のため、桐朋学園短期大学学長となる。 |
1960年(昭和35年)57歳 |
井口帰国に伴い、同短期大学学長を辞任。 |
1961年(昭和36年)58歳 |
桐朋学園大学音楽学部設置(5月10日)、同大学教授、指揮科および弦楽科主任となる。 |
1964年(昭和39年)62歳 |
桐朋学園弦楽合奏団を結成し渡米公演を行う。(7月7日〜7月27日) |
1965年(昭和40年)62歳 |
渡米弦楽合奏団に対し、第6回毎日芸術大賞が授与される。 |
1967年(昭和42年)64歳 |
日本指揮者協会会長に就任。民音コンクールに指揮部門と室内楽部門を設ける貴重なアドバイスをする。同年7月 第1回の民音指揮者コンクール開催。 |
1970年(昭和45年)68歳 |
桐朋学園渡欧弦楽合奏団を結成し、ソ連、東欧圏を含むヨーロッパ公演を行う。(9月26日〜11月30日) |
1971年(昭和46年)69歳 |
相愛学園大学・学部長に就任。(桐朋は専任のまま) |
1972年(昭和47年)70歳 |
新日本フィルハーモニー交響楽団指揮者団顧問に就任。(9月) |
1973年(昭和48年)71歳 |
相愛学園学部長再任。
文化功労者に顕彰される。ロン・ティボー国際コンクール審査員。 |
1974年(昭和49年)72歳 |
聖路加病院で逝去。(9月18日)
正四位勲二等瑞宝章を受章。
エール大学よりサンフォード賞を授与される。
この年の10月、彼にとっては気がかりだった桐朋学園オーケストラの第2回渡米公演(10月14日〜11月3日)が実現、大成功をおさめた。同年12月、第1回の民音室内楽コンクール開催。 |
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(寺西春雄編をもとに作成) |