音楽博物館


齋藤秀雄生誕100年記念展


 開催日程ご案内

2002年 春季特別展「齋藤秀雄生誕100年記念展」
開催期間:2002.5.1(水)〜7.14(日)
開館時間:平日・土曜/11:00〜16:00 日曜・祝日/10:00〜17:00
※入場は閉館30分前まで。休館日は毎週月曜(祝日の場合は火曜)
ごあいさつ

民音では、昨秋の「山田耕筰資料展」に続き、5月1日より「齋藤秀雄生誕100年記念展」を開催することになりました。
本年5月23日に生誕100年を迎えられる齋藤秀雄先生(1902−1974)は、日本の西洋音楽のレベルを世界的にまで引き上げた大功労者として知られています。
一級の指揮者であり、当代随一のチェリストであり、そして何よりも類い稀な教育者として小澤征爾、堤 剛をはじめ数多くの指揮者、チェリスト、弦楽器奏者を育て上げた功績は燦然と輝きを増し今なお大きな足跡を残しております。
「クラシック音楽を日本に本格的に持ち込んだ人が3人いる。山田耕筰さんと近衛秀麿さんと齋藤秀雄先生だ。齋藤先生がいなかったら、ボクも秋山も、そして、多分、岩城さんも若杉さんも出なかっただろう。」とは「齋藤秀雄・音楽と生涯」を発刊した時の小澤征爾さんの言葉です。
民音では、齋藤先生の大きなアドバイスにより、世界でも稀な指揮者コンクールと室内楽コンクールを始めることになり、多くの人材が国際舞台へと羽ばたいていきました。
今回の展示では、齋藤先生のご遺族からご寄贈いただいたブリュートナー・ピアノはじめ思い出の品々を初めて公開させていただきます。
これらの展示を通して、齋藤秀雄先生の偉大な功績の一端を感じ取っていただければ、と念じております。
最後になりましたが、今回の展示にあたって齋藤秀雄先生のご遺族の方々をはじめ、ご協力いただきました方々に衷心より御礼申し上げます。

財団法人 民主音楽協会

桐朋学園弦楽合奏団、渡米公演(タングルウッド)時。
ボストン交響楽団音楽監督ラインスドルフとともに(昭和39年)

小澤征爾とともに。
“齋藤先生がいなかったら、ボクも秋山も、そして、多分、岩城さんも若杉さんも出なかっただろう!!”
―小澤征爾―

左から、齋藤秀雄、巖本真理、井口基成、河野俊達

新交響楽団を指揮。(日本青年館)

演奏旅行。
左から河野俊達、森正、齋藤秀雄

新交響楽団時代。
左から、黒柳守綱(コンサートマスター)、橘常定(チェロ)、ローゼンシュトック、齋藤秀雄

目白・自由学園での指揮教室時代。
前列左から、佐々金治、久山恵子、羽仁協子、齋藤秀雄、山本直純、横山千秋。後列右端、小澤征爾。

フォイアマン教授(中央)を迎えて。
齋藤秀雄(左から2人目)、後列中央は近衛秀麿
ごあいさつ
年号・年齢 事項
1902年(明治35年)0歳 東京築地明石町に英文学者齋藤秀三郎を父、とらを母として生まれる。(5月23日)
1909年(明治42年)6歳 暁星小学校入学。
1915年(大正4年)12歳 暁星中学校入学。
中学時代、マンドリン・アンサンブルに興味をもち、民間のマンドリン・グループで頼まれて指揮をしていた時期あり。
指揮の第一歩。
1918年(大正7年)16歳 宮内省雅楽部・多元長氏についてチェロを学ぶ。
1920年(大正9年)17歳 上智大学入学。
1922年(大正11年)19歳 ドイツ留学のめどがつき、上智大学中退。
1923年(大正12年)20歳 ドイツ・ライプチヒ音楽学校入学。(5月1日)、クレンゲル教授に師事してチェロを学ぶ。
1927年(昭和2年)24歳 ライプチヒ音楽学校修了。(4月30日)新交響楽団(NHK交響楽団の前身)首席チェロ奏者となり(9月)、オーケストラ活動の第一歩を踏みだす。
1928年(昭和3年)26歳 新響第30回定期公演を指揮(5月27日)、プロの指揮者としてのデビューとなる。
1929年(昭和4年)27歳 前年に新響定期でソリストとしてボエールマンの「交響変奏曲」の初演を果たしたが、この年、第1回のチェロ独奏会を開き、独奏チェリストとしても注目される存在となる。
1930年(昭和5年)27歳 同楽団在籍のままドイツ・ベルリン高等音楽院入学。(5月5日) 、フォイアマン教授に師事。
1932年(昭和7年)29歳 ベルリン高等音楽院修了。(4月30日)
新交響楽団首席チェロ奏者に復帰(9月)その後、約10年近くの間、オーケストラ・プレイヤー、室内楽奏者、指揮者として活躍。
1936年(昭和11年)34歳 指揮者ローゼンシュトック来日、新響の指揮の責任者となってくれたが、彼から受けた指導や示唆(指揮のみならず音楽全般にわたって)は齋藤秀雄に大きな影響を与えた。
1941年(昭和16年)39歳 新交響楽団退団。(8月31日)
1942年(昭和17年)39歳 松竹交響楽団指揮者に就任。(5月1日)
1943年(昭和18年)40歳 同楽団指揮者を辞任。(4月30日)
日本放送管弦楽団指揮者となる。(5月1日)
1945年(昭和20年)43歳 敗戦。(8月15日)
東京フィルハーモニー管弦楽団専任指揮者となる。(8月31日)
1946年(昭和21年)44歳 同楽団退団。
(8月)前々から室内楽運動をくりひろげていた後輩たち(森正、巌本真理、河野俊達ら)と東京室内楽協会を結成、めざましい活動を開始。三越劇場を本拠とする三越室内楽鑑賞会の定期公演は、戦争直後の日本楽壇に活気を吹き込んだ。
1948年(昭和23年)46歳 井口基成、伊藤武雄、吉田秀和らと市ケ谷の家政学院に「子供のための音楽教室」を開設(9月)、弦楽器科主任となる。
相愛学園音楽科弦楽主任となる。
1950年(昭和25年)47歳 「子供のための音楽教室」に弦楽合奏のグループを組織し、オーケストラ教育の第一歩をふみだす。
1952年(昭和27年)49歳 京都市立音楽短大教授に就任。
「子供のための音楽教室」の卒業生の進路として、桐朋女子高等学校が、同校に音楽科を併設して受け入れてくれることになり、男女共学の桐朋女子高校音楽科が発足、音楽科主任となる。(桐朋学園「子供のための音楽教室」も開設)
1953年(昭和28年)50歳 京都市立音楽短大教授辞任。
1955年(昭和30年)52歳 桐朋学園短期大学音楽科開設、同弦楽科主任教授。
1956年(昭和31年)54歳 永年にわたって推敲を重ねてきた「指揮法教程」が出版され、指揮法の基礎を理論的に説いた名著として注目される。芸術院賞受賞。
1958年(昭和33年)55歳 学長井口基成外遊のため、桐朋学園短期大学学長となる。
1960年(昭和35年)57歳 井口帰国に伴い、同短期大学学長を辞任。
1961年(昭和36年)58歳 桐朋学園大学音楽学部設置(5月10日)、同大学教授、指揮科および弦楽科主任となる。
1964年(昭和39年)62歳 桐朋学園弦楽合奏団を結成し渡米公演を行う。(7月7日〜7月27日)
1965年(昭和40年)62歳 渡米弦楽合奏団に対し、第6回毎日芸術大賞が授与される。
1967年(昭和42年)64歳 日本指揮者協会会長に就任。民音コンクールに指揮部門と室内楽部門を設ける貴重なアドバイスをする。同年7月 第1回の民音指揮者コンクール開催。
1970年(昭和45年)68歳 桐朋学園渡欧弦楽合奏団を結成し、ソ連、東欧圏を含むヨーロッパ公演を行う。(9月26日〜11月30日)
1971年(昭和46年)69歳 相愛学園大学・学部長に就任。(桐朋は専任のまま)
1972年(昭和47年)70歳 新日本フィルハーモニー交響楽団指揮者団顧問に就任。(9月)
1973年(昭和48年)71歳 相愛学園学部長再任。
文化功労者に顕彰される。ロン・ティボー国際コンクール審査員。
1974年(昭和49年)72歳 聖路加病院で逝去。(9月18日)
正四位勲二等瑞宝章を受章。
エール大学よりサンフォード賞を授与される。
この年の10月、彼にとっては気がかりだった桐朋学園オーケストラの第2回渡米公演(10月14日〜11月3日)が実現、大成功をおさめた。同年12月、第1回の民音室内楽コンクール開催。
(寺西春雄編をもとに作成)